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津軽塗の歴史

成立

津軽塗の成立

津軽塗の成立は江戸時代中期、弘前藩第四代藩主津軽信政公(1646~1710年)の治世にさかのぼるとされる。 この時代、徳川氏による大名の国替も一段落し、政情は安定して各藩の商工業も徐々に発展していく様相を見せた。 また、寛永19年(1642年)に成立した参勤交代の制度と、それに伴う街道整備により流通が発達し、 上方(京都・大阪)や江戸の文物が地方に伝播していくようになった結果、各藩がそれぞれの地域の産業を保護奨励するようになり、 この時期日本全国で多くの工芸品が誕生し、普及・発達し始めた。

信政公も津軽の産業を育成するため、全国から多くの職人・技術者を弘前に招いた。 延宝4年(1676年)頃には、既に弘前城内の一角に、塗師の作業場があったことが、当時の図面により明らかにされている。

なお、信政公が諸国から招いた職人の中に、若狭国(現在の福井県)の塗師、池田源兵衛という人物がいた。 源兵衛は貞享2年(1685年)、藩命により江戸へ上り、塗師の青海太郎左衛門に入門した。 源兵衛は翌年、江戸で客死したが、父の遺志を継いだ源太郎は、蒔絵師山野井の門で修業をする。 その後元禄10年(1697年)、亡父と同じように青海太郎左衛門に入門し修業を積んだ。 やがて源太郎は青海一門の一子相伝の秘事「青海波塗」(せいかいはぬり)を伝授される。 太郎左衛門の死後、帰藩した源太郎は享保12年(1727年)、師の姓と父の名を継いで、青海源兵衛と名乗った。 この間もこれ以後も、青海源兵衛は今まで学んだ技術に独自の創意を加え、津軽の地で新たな漆器を生み出していくこととなる。

幕末まで

この時期に各地で発達した漆器全般に言えることだが、弘前藩で発達した漆器も、 当初は武家が腰に差す刀の鞘を美麗に彩るために用いられた。 刀が武器としてではなく、装身具として見られるようになった、太平の世ならではのことである。 やがて刀の鞘のみならず、様々な調度品が津軽塗で彩られるようになった。 ある商人が書いた「津軽見聞記」という文献によると、宝暦8年(1758年)には「弘前一流の塗物あり、から塗という。 文庫、硯箱、重箱、提重、刀、脇差の鞘など塗たるところ~(中略)~格別美事なり。 大阪にて此の塗物贋せさするに中々似るべくもなし」という記述が見られるほどの名声を博していた。 この文献から、「唐塗」の技法が既にこのころ成立していた事もよくわかる。弘前藩も、こうした塗物を幕府や他藩、 朝廷や公家への贈答品として用いることで、その価値をより高いものにしようと努めていたことが窺える。 ところが江戸時代も末期となると、騒然とした世情に巻き込まれ、弘前の漆器産業に衰微の影が忍び寄ることとなった。

明治以後

津軽塗の成立

明治4年(1871年)の廃藩置県後は、津軽塗への藩による保護政策も失われ、漆樹も乱伐され、 さらに経済体制が変化したことで、衰微と混乱に拍車がかかることとなった。 しかし藩に代わって県が助成を始めたこと、士族や商人による漆器の製造所や組合組織が結成されたことで 、津軽の漆器産業は息を吹き返すこととなる。

明治6年(1873年)に開催された、ウィーン万国博覧会には、青森県が「津軽塗」の名前で漆器を出展し、賞を受けている。 「津軽塗」という名前が一般的となるのは、ここからである。その後、大正時代まで津軽塗産業は大衆化を推し進め、 生産量/販売額を増大することに成功する。

しかし昭和4年(1929年)に発生した世界恐慌の影響は津軽塗産業にも波及。 深刻な不況に陥ることとなる。 その後、第二次大戦中は軍需産業中心の経済統制を受け、更なる打撃を受けることとなった。

戦後

第二次大戦後になると、関連組織・団体の改革や展示会開催、展覧会への出品、指導研究機関の技術指導など、 津軽塗産業を取り巻く環境整備が進み、再び活況を呈してくる。 昭和40年代の高度経済成長期には、需要の拡大による人出不足の問題が深刻化したほどであった。 昭和50年(1975年)に制定された伝統的工芸品産業振興法により、津軽塗が経済産業大臣指定伝統工芸品に選定されたことを契機に、 津軽塗の産業界が抱える諸問題(各企業の零細規模、生産体制の非効率性、計数把握の欠如など)に対して、改善の試みが行われることとなった。

以後、平成の現在に至るまで、津軽塗は青森県を代表する伝統工芸品としての地位を保ち、更なる発展の道筋を辿っている。


年号
(西暦)
津軽塗の歴史に係る主な出来事 世相
天正18年(1590) 大浦為信、豊臣秀吉より奥州仕置きによって、津軽三郡の領有を認められる。
大浦為信、津軽地方をほぼ統一し、津軽氏と改称する。
小田原城陥落。
豊臣秀吉、全国を統一する。
慶長5年(1600) 為信、東軍に参加し、美濃・大垣城攻略に参加。 関ヶ原の戦い。徳川家康が石田三成をやぶる。
慶長8年(1603) 外様大名の一人として、津軽領有を安堵される(弘前藩の成立)。
為信、高岡(後の弘前)の地に築城を決定する。
江戸幕府成立。
慶長12年(1607) 為信、京都の山科で客死。 江戸城天守閣完成。
明暦元年(1655) 三代藩主信義没し、信政公が四代藩主となる。  
貞享2年(1685) 信政公より若狭から招かれた塗師の池田源兵衛、藩命を受け江戸の青海太郎左衛門へ入門。 長崎貿易を制限。山鹿素行が亡くなる。
貞享3年(1686) 池田源兵衛、江戸にて客死。
子の源太郎、父の意思を継ぎ、蒔絵師山野井の門で修業をする。
翌年に生類憐みの令が出される。
元禄10年(1697) 源太郎、青海太郎左衛門のもとに入門。後に名前を源兵衛と改める。 関東大地震。江戸に大火が発生する。
宝永元年(1704) 池田源兵衛、弘前に戻り、津軽の漆工の中心となる(津軽塗の基礎が成立)。 前年に幕府、赤穂浪士の処刑を命じる。
享保12年(1727) 池田源兵衛、青海源兵衛と名を改める。  
宝暦8年(1758) 「津軽見聞記」に「弘前一流の塗物あり、から塗という」「青海屋源兵衛を上手となす」との記述あり。当時、すでに唐塗の技法が安定していたことを示す。 宝暦5年~宝暦の大飢饉
~幕末 以後、藩政時代を通じ津軽塗は、幕府や他藩、朝廷、公家への贈答品として、また藩主や調度品、寺社の什器、武士の武具などに用いられ、地場産業として発展する。  
明治元年(1868)   明治維新。
明治4年(1871) 弘前藩を廃し、弘前県を置く。
弘前県を青森県と改め、県庁を青森に置く。
明治政府、廃藩置県を行う。
明治6年(1873) ウィーン万国博覧会に津軽塗出品。
津軽唐塗が有功賞碑を受賞。
徴兵令制定。地租改正条例制定。
明治7年(1874) 山田浩蔵、同志と計って漆器製造をはじめる。 7曜日制導入。東京警視庁設置。
明治13年(1880) 山田、弘前市本町に漆器樹産会社を設立(現在の田中屋の前身)。 国会開設期成同盟、発足。
明治16年(1883) 弘前市和徳町に漆器製造所発誠社が設立。 鹿鳴館、開館。
明治40年(1907) 青森県工業講習所漆工科が開設され、組織的漆工養成が試みられる。
奈良丹次郎を組合長とする津軽塗産業組合が設立される。
柴田久次郎を会長とする弘前木地協和会が結成される。
鉄道国有化。
大正4年(1915) 弘前市西茂森町宝泉院に、当時の津軽塗師親方衆の人名が入った手板の額が奉納される(後に火事により焼失)。 前年、第1次大戦勃発。
日本政府、中国に21カ条の要求。
大正9年(1920) 武田義七が『陸奥の友』第二巻三号で「津軽塗の一部を公開する」という記事を寄稿し、唐塗の工程を発表する。 国際連盟が発足する。
昭和8年(1933) 青森工業試験場に工芸指導部の工場が完成。
津軽塗技術指導の体制が確立するが、戦時下のため経済統制を受け、産業は徐々に衰微する。
日本、国際連盟を脱退する。
昭和17年(1942) 技術者保存制度を設け、嘉瀬清夫、菊池敏時、斉藤熊五郎、鈴木多一、田中三郎、奈良金一らの技術を残すこととする。 前年、真珠湾攻撃。第2次世界大戦が勃発する。
この年、ミッドウェー海戦で日本が敗れる。
昭和21年(1946) 「親方に左右されない自主的活動」を目的とする無名会が、28名の津軽塗師によって結成。提唱者の藤沢秀雄が会長となる。
この後、組織の強化、拡大、組織による展示会、展覧会への出品、
指導研究機関の技術指導などが功を奏し、津軽塗の大衆化が図られる。
前年、日本政府、ポツダム宣言を受諾し、
無条件降伏する。
昭和30年(1955) 全国漆器展で津軽塗が優勝し、奈良敏雄を会長とする青森県漆器連合会が結成される。 東京通信工業(現ソニー)が国産初の
トランジスタラジオを開発。
昭和31年(1956) 須藤八十八ら6名が技能者養成指導員の資格を取得し、漆器産業関係者の技術向上を目標に、工芸教室を開講する。 日本、国際連合に加入。日ソ国交回復。
昭和40年代 三上勝三を理事長として弘前津軽塗商工業協同組合が再出発する久保博が研磨工程に電動工具を導入する。
村田基之が作業性を工程分業化する。
山崎静らが合成樹脂・陶胎素地に唐塗を行う。
弘前地方の伝統工芸の発展及び新しい工芸品の開発を行う弘前工芸協会を設立。
津軽塗団地協同組合を6社で設立。
高度経済成長期
昭和50年(1975) 津軽塗、県内で唯一、国の伝統的工芸品に指定される。
後継者養成技術研修事業(昭和50年~57年) 津軽漆友会、発足。メンバーの多くは徒弟制最後の職人。
ベトナム戦争終結。
昭和52年(1977) 津軽塗伝統工芸士会、設立。 王貞治、ホームラン世界記録を樹立。
昭和57年(1982) 地場産業総合振興事業“津軽塗とヒバ材による新商品”の製品を試作。 フォークランド戦争。
昭和60年(1985) 游工房設立“漆・NEO TSUGARU” チェルノブイリ原発事故。
昭和62年(1987) “NEO TSUGARU”からGマーク(通商産業省選定グッドデザイン)商品が生れる。  
平成2年(1990) 新色倶楽部、発足 “新色的自由人”の実験工房。 イラク、クウェートに侵攻。
平成3年(1991) 伝統工芸津軽漆器協同組合、設立。 第一次湾岸戦争勃発。
平成5年(1993) 伝統工芸津軽漆器協同組合青年部、結成。 細川連立内閣、誕生。
平成7年(1995) 第2次振興計画策定(伝統的工芸品産業支援補助事業)。 阪神淡路大震災。地下鉄サリン事件。
平成11年(1999) 技術・技法の記録収集:保存事業。 欧州にて、統一通貨「ユーロ」導入。
平成13年(2001) 津軽塗技術の保存・伝承及び振興を図るため「津軽塗技術保存会」を設立。 アメリカ同時多発テロ。
平成15年(2003) 冬季アジア大会公式メダル作成。
青森県工業試験場が青森県工業総合研究センターに改変。
第3次振興計画策定(伝統的工芸品産業支援補助事業)。
第二次湾岸戦争勃発。
平成17年(2005) 海外進出へ向け始動(国。県・市の補助事業)。 郵政選挙で自民党、歴史的大勝。
平成21年(2009) 青森県工業総合研究センターが独立行政法人青森県産業技術センター改変。 アメリカ大統領にバラク・オバマ就任。